山を楽しむ

乗鞍岳

山登りは、無理をすると楽しくない。嫌な思い出を作ると、続けられなくなってしまう。

多分、遭難したり行動不能になったりすると、最高に嫌な思い出を作ってしまうことになると思う。

だから、登山を続けたいなら、なるべく嫌な思い出を作らない方が私は良いと思っている。

いかに「楽しむか」をメインにした登山をするように心がければ、こんな素晴らしいスポーツは他にない。

登山は楽しいスポーツだ。

美しい自然を体感しながら、人生にかけがえのない安らぎを与えてくれる。

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とんがった山とまるい山


肩の小屋への登り口

歳をとってくると、体力や判断力、瞬発力が衰えてくる。これは自然なことで、どんなことをしようとも、どうしようもない。若返りの薬でもあるなら飲みたいが、そんなものはこの世には存在しない。老いは誰にでも訪れる自然なことで、別に恥ずべきことでもなんでもない。

私が登山を始めたのはほんの6年前だが、その頃から比べると、やはり体力の衰えは確実にある。

始めた頃はやたら尖った山、岩山、危険な山に登ってみたいと思っていた。

ヤマレコなんかの影響もあったのかもしれないが、そういう山に登って自分の体力を確認をしたかったのかもしれない。「自分はまだ若い。まだまだ大丈夫だ」と。

しかし、最近はそういう登山に魅力を感じられなくなってきた。

最初に言ったように、体力の衰えを感じたのは事実であるし、競争みたいにして山に登る気力もなくなってきた。

むしろ、「美しい自然を感じながら、ゆっくりと歩きたいなあ」という思いがさらに強くなってきた。

前に登った同じ山でも、季節によっていろいろな表情を見せてくれる。険しい山ももちろん美しいが、穏やかな山の方が、自然を観察しながらあるくという目的にはかなっている。

人間は決して若返ることは出来ない。ならば、年相応なレベルの山を楽しむようにすれば良いのではないか?

山はどんな山でも美しい。

ちょっと視点を変えるだけで、意外な美しさに出会うことが出来るのではないだろうか。

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がんばっているのか、または、がんばらされているのか

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「恐ろしいから、やめておこう」という気持ちは確かに大切である。しかし、あまりにも臆病すぎると、何もできなくなってしまう。

一番安全なことは、健康的な食生活、規則正しい生活、そして「危険なことを避ける」ことだろうと思う。山に登ることは「危険なこと」に相当するため、安全に生きようとする人にとっては「なぜそんなことをするのか」と疑問に思われるのも当然である。

そういう人たちはきっと言うだろう。「山小屋なんか必要ない。登山道も整備する必要はない。登山するなんて無益なことだ。遭難して人に迷惑をかけるなんて、社会にとって無益なだけだ。登山なんてやめてしまえ」と。

しかし、本当にそれでいいのだろうか? それだけでいいのだろうか?

それだけで本当に人生に納得を得られるのだろうか? 人並みなことだけをして、なるべく危険なことに遭わないようにして、だんだんと老いてゆき、そのまま枯れるように亡くなっていくことが。

わたしは一般の人とは考え方が違っているのかもしれない。どうもそれだけではいけないのではないか?と思えてならないのだ。

いろいろな努力の仕方がある。みんなのやっていることを真似て、その中でより高い目標に向かってする努力。だれもやっていないことを新たに生み出そうとする努力。

私のする登山は、すくなくともそれらの努力とは全く違った種類の努力である。特別無理をするわけでも無い。何か目標があるわけでもない。ただ、歩かざるを得ない、という思いだけだ。「ただひたすらに歩く」努力だけである。

「歩くこと」は努力を必要とするが、それは「楽しい」だけでもない。とてつもなく「苦しい」ことすらある。

結果的に「がんばってやったなあ」と思うだけで、登山時はただただ必死で、足がひとりでに前に行っている感じである。

こういう感覚になるのは、登山の醍醐味なのだろうか?。それすらもはっきりしないのだ。がんばっているのか、または、がんばらされているのか。

ただ「ひたすら」歩くことを一生懸命にやっているだけである。そして、だんだん回数を重ねてくると、回数を重ねただけの思いが生まれてくる。

もちろん「危険なことを」やっているのは間違いない。非難する人もいるだろう。だからこれが正しいことなのか、間違ったことなのか、私は自信を持って言えない。

しかし「危険だから」と言って止めてしまったら、私はたぶん人生に納得がいかなくなってしまうだろう。

これを、どう表現したらよいのだろう?

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