栗城史多氏が亡くなった

栗城氏がなくなった

先日、このブログで紹介した栗城史多氏が、エベレストに散った。

無理でも、無事、下山して、また挑戦されることを、願っていた矢先の訃報。

非常に残念だ。「体調が悪い」のに無理をしてしまったのか。

言葉もない。8000m以上にあるという「デスゾーン」。常にマイナス20度以下、空気は地上の三分の一、風速30m以上の風が常に吹く世界に、酸素を持たずに、行ってしまったのか。

栗城氏は山頂から、中継したいと望み、登頂の喜びをみんなで分かち合いたい、と願っておられた。

しかし、叶うことはなかった。大自然の厳しさ、非情さを恨むことは出来ないが、無念である。

ご冥福をお祈りします。

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そして、また、「登山とメディア」について、新たな感慨が湧いてきた。

uedayasuji氏もそうであったが、「命をかけて経験を共有したい」と思うこと、それがいったい何であるのか?また考えることが出てきた。

それは、この世に「存在」の証を残すことで、ほんとうにあるのか?

このブログを始めた出発点に、また戻された。

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真人の世界

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”仙人”の「仙」は人べんに山と書く。だから山に住んでいる人を、仙人というのだろう。一般の理解では、このような人たちは、世俗を捨てて山で自給自足の生活をしている人だ、と思いがちだ。

しかし、生活をしているだけなら、それだけのことである。そこに何か真実をつかんでいなければ、せっかく山に住んでいる意味はないだろう。

真実をつかんだ人のことを「真人(しんじん)」という。真人は必ずしも山に住んでいるとは限らない。町の片隅にもいるし、大都会にもいる。

『荘子』の「大宗師篇」によれば、真人とはこんな人だという。

「昔の真人は逆境の時でも無理に逆らわず、栄達の時でもかくべつ勇みたたず、万事をあるがままにまかせて思慮をめぐらすことがなかった。こうした境地の人は、たとえ過失があってもくよくよ後悔せず、うまくいっても自分でうぬぼれることがない。こうした境地の人は、また高いところに登ってもびくびくせず、水の中に入っても溺れることがなく、火の中に入っても熱くない。これは、その認識が世俗を超えて自然の道理にまではるかに登りつめることができたからこそ、そうなのだ」

こういう人には、なろうと思ってもなかなかなれないなあ。

 

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いろいろ批判はあるにせよ

栗城氏のブログ

今日からエベレストに8回目の挑戦を開始する栗城史多氏。予定では21日に山頂に立つという。

氏は2012年にエベレストに挑戦した際、重度の凍傷にかかり9本の指を失っている。

”下山家”だとか”無謀だ”とか、さまざまな批判があるようだが、そんなことを気にせずに、ただひたすら「自分の目標」に向かう姿は素晴らしいと思うし、最近の若い人には居ないよなあ、熱いよなあ、と思う。

彼ほどの境地になると、命を惜しんでいないのだろう。しかし、無事に帰ってきてほしい。命を失ったら、エベレストに登れなくなるぜ。

8回失敗しても良い。何回失敗しても良い。命がある限り、トライし続けるその姿が多くの人に勇気を与える。

ボコボコに叩かれても、目標を曲げない人は羨ましいな。自分はそうでないから、余計羨望する。

山登りに関しては、共感できないが、その精神力は尊敬に値する。

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宮家準著 『霊山と日本人』

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霊山と日本人

—最初にも述べたように現在は人間中心的な世界観にもとづく合理主義的な思想が破綻し、一神教的原理主義が宗教対立を生みだしている。こうした中にあって、自然のなかでも大きな位置を占める霊山の信仰に見られる多宗教の並存、融合の中に、人類にとって真に必要とされる普遍的な宗教のあり方を求めることが必要とされるのである。

宮家準. 霊山と日本人 (講談社学術文庫) (Kindle の位置No.3636-3640). . Kindle 版.

以前、白鳥山に登った時、『山姥の記憶』について書いた。この時、「山姥」とは山の女神のことではないか、という印象を強く持ったが、今回、修験道研究の第一人者である宮家準先生の書を読んで、その感を新たにした。

今回読んだのは一般向けに書かれている『霊山と日本人』だ。山姥とその子供(金太郎)の関係について、女性シャーマンとそれを助ける人の関係を充てている。山で修行する仙人を充てている例もあるという。

いずれにせよ、山の女神は仏教が伝わる、はるか以前から山にいた宗教者であろう。宮家氏は、このような土着宗教に起源をもつ宗教を「民俗宗教」と呼び、多神教的であり、多様性に関して寛容な宗教だとみなしておられる。いかに迷信的な考え方であったとしても、つい最近までわれわれが当然と思っていた「しきたり」「風習」に関して、これらの、民俗宗教を取り入れたと思われる、仏教をベースにした日本独自の宗教である修験道の果してきた役割は、他のいかなる宗教も及ばないほど大きい。祭り、葬儀、人生儀礼について、神道とも習合して民衆に対して教化を果たしてきたのが、修験道であったことは疑いない。大陸から伝わった仏教一般は、ほんとうについ最近まで、その教えすら正確に伝わってはいなかったのである。大部分の、われわれの先祖が知っていた仏教とは、実は非常に現世利益的で、日常生活に密着した、現実的なものだったのである。最近まで仏教そのものに触れ得たのは、一部のエリートたちに過ぎなかった、と言っても間違いではない。

そもそも、江戸時代までは仏教と神道は混じり合っており、明確な区別はほとんど無かった。明治になって「神仏分離令」が発布されて、強制的に分離させられたのである。

仏教、キリスト教などのいわゆる「グローバル」な宗教に対して、「民俗宗教」は地域的であり、どんな考え方に対しても寛容であり、それを受け入れながら様々に姿を変えてきた。以前「山姥」について書いた時は、その「妖怪化」の視点から書いてみたのだが、それを逆に考えてみると、姿は恐るべき妖怪に変容させられたにせよ、「山姥」という姿で現在に至るまで、山の女神そのものは伝承されてきたのである。その変容の仕方が、時代に合わせて、変わっただけで、生命は生き残ってきた、という見方もできることに気がついた。

その思考の「柔軟性」こそが、現代社会にもっとも必要なことなのではないか、と宮家氏は述べておられるように感じた。

様々に変容させられたにせよ、自然に対する人々の考え方が「民俗宗教」の中には息づいている。

今はたいていの日本人はその事を意識していない。

現在、登山がこれほどのブームになっているのも、山に登ることによって、今まで意識する暇もなかった「無意識」の部分を見つめ直そう、という意識の表れなのかもしれない。それによって、迷いがちなわれわれの意識は、なにか気づくことがあるのではないだろうか?

ものごとは、単純に善と悪、真と偽、1とゼロに分離出来ない。

このことは、古代ギリシャ人も知っていた。しかし、いつの時代からか、忘れ去られてしまった。

この、あいまいな場所こそが、神々や仏のおられる場所。その場所が山なのかもしれない。

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低くても山は危険

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捜索1週間、遭難の親子発見できず五頭連峰

GWに遭難した親子が、まだ見つかっていない。親子か向かった山は新潟の松平山で、標高954mの山だ。954mと聞くと、登山をやっている人は「なんだ低い山ではないか」と言うだろう。たしかに北アルプスの2000mを超える山から比べると、標高は低い。

しかし大切なことは、低いからといって、安全であるということは決して言えない、ということだ。

低い山は、なぜか他の登山者がいないか、ごく少ないことが多い。あまり人気がない、と言える。

そのため、もしも何かあった場合、周りに気づいてもらえる可能性がゼロに近い。

人が歩いていないためか、登山道は荒れていて、不明瞭な箇所も多い。ロープが欲しい場所にロープが無かったり、登山道が崩落している場合も多い。

こういう未整備な道は、北アルプスのよく整備された登山道を歩くよりも、むしろ危険だ。

また標高が低いために、樹木がうっそうと生いしげり、見晴らしが良くない。ましてや残雪がある時は、樹木と残雪で道が隠れる、ということになる。

そのため地図付きGPSは必須である。しかし、標高が低いために、GPSも持たず、登山届も出さず、発信機を持っていかない人もいる。これは危険な行為である。

私の知っている人で、やはり低山に登っていて、遭難された人がおられる。危険な岩場を歩いた経験もある方だったのに、なぜ?と思った。

結局、山の難易度は、山の標高ではわからないのである。

また、山である限り 気軽に登れる山などありえない。山はどんな山でも危険である。

標高が低くても、里に近くても、登山届の提出を怠ってはいけないし、GPSやヒトココ発信機の携帯など、遭難対策を忘れてはいけない。いやむしろ、ヤブが多く、道もはっきりしないことを予想して、より気持ちを引き締めるべきである。未整備の山は、より大自然に近い。大自然は決して甘くないのだ。

また、GWにあった遭難のうちの2件の遭難は、「子供連れ」登山であった。子供は予想外の行動を取ることがあるので、あまり山に連れていくべきではない、と思う。親がしっかりしていても、子供が勝手にどこかに行ってしまえば、それを探すために、親も迷ってしまう可能性がある。

山は一旦迷ってしまうと、とても危険な場所である。

親子が1日もはやく、無事発見されることを祈るばかりである。

 

 

 

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金剛堂山 ムカデと一緒に登山

私は生まれてから一度もムカデに噛まれたことがないのが自慢だ。

しかし、今日はいつ噛まれてもおかしくない状況だった。いつものように、金剛堂山の山頂に着いた時、服の中がなにか「モゾモゾ」と動く。

アリでも入ったのかなあ、と思って放置していた。

下山し、服を着替えて、頭に巻いたタオルを取った時、首のあたりに何か這う虫の気配。

何だろう、と思って払ってみると、15cmはあろうかという大ムカデがタオルに着いていた。よく噛まれなかったものだ。車に乗っている時も、ずっと着いていたのであろう。

運が良いというか、なんというか。私はなぜ噛まれないのだろう。自分でも不思議なのである。

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残雪の北アルプス。うーんいつものように美しい。

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ここで昼食。服の中に違和感。どうせアリだろう、と思って放置(笑)(あとからよく考えてみると、アリさんは一匹も地面を這っていなかったよなあ)

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白山

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乗鞍

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まばらに残雪。

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今日は良い天気だ

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わざわざ残雪のある所を歩いてみる。

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少しクレバスがあるが、今の時期は硬いので、大丈夫。

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どんどん下るよ。

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何の花だろう。

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黄色い花。これが一面に咲いていて美しい。

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午後になって、融雪も進んできたよ。

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空に新緑が映えるなあ

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コブシの花がとてもきれいであった

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めったにお目にかからない「ヒガラ」。羽の2本線と頭の白いポイントが特徴。

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コールデンウィーク後半は荒れるらしい

ゴールデンウィークの後半は荒天、危険!

遭難情報を発信している長野の「りんどう山の会」のブログによれば、5月3日から4日、北アルプスは荒れ模様になり、降雪の可能性があるそうだ。

山に行く予定を組んでいる方、いますぐ中止を決断したほうがいいですよ。

経験上、大変危険なパターンになる可能性がありますよ!

いまの時期、気圧の谷の通過で大荒れになり、後、西高東低の気圧配置になり、寒気が流れ込むパターンは割とある。

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気象庁天気図を加工して使用 http://www.jma.go.jp/jp/g3/

2日の晩あたりから、風雨ともに強まると予想される。

赤い線で表されている「温暖前線」が通る時に激しい風が吹き、寒冷前線で雷、雨風が強まり、一気に気温が10度ほど下がる。そのあと、太平洋に抜けると、発達し、冬型の気圧配置になるだろう。

こういう時は山に行きたく無いなあ、いや、本当に。

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