生のままの現実、それ以外に、いったい何があるだろうか?

IMG_6918.jpg

「自然と人間」「科学と宗教」など、いろいろな対立概念について、このブログで多くを語ってきた。

「結局のところ、あなたはどう考えているのか? 科学と宗教と、どちらを信じるのか?」という声が聞こえてきそうだ。

山に登りながら考えてきて、ひとつはっきりしていることがある。それは、そんな対立関係など、所詮は人間の頭脳が作り出した幻だ、ということ。

「それでは、この世は皆、幻なのか? 我々の生きていることには意味が無いとでもいうのか?」

そんなことを言っているのではない。現に目の前にある現実は、決して否定できないし、それを否定することは、大きな間違いを生むことになるだろう。

目の前にはただひとつの現実があるのみだ。それを人間に便利なようにするのが科学であれば、それを利用させてもらうだけだ。

また、別の視点から本質的に考えることが出来るようにするために、仏教哲学なども勉強する。

山に登っている時、疲労などで道迷いでもするならば、死んでしまうだろう。

それと同じように、普段生きている時でも、目の前の現実をしっかり認識しないと、道を誤ってしまうことだろう。

間違いをしないように、いろいろな工夫をするのは、自分の身を守るために必要なことだ。

神様がいるとか、居ないとか、それは個々人が感じることであり、言葉に出して言うことでもないだろう。誰かがそんなことを大声で言うならば、そこに向かって人が道を誤って進む場合もないだろうか?

逆に目の前に展開される現象世界に対して、「こんなものは何の意味があるのだろうか?」と絶望的に思い込む場合もある。

「世の中は、空(くう)だ」という言葉を誤解して、自然のリズムに逆らうような滅茶苦茶なことをやっている人間もたまに見かける。

「空」というのは、言葉で表現できない、厳しい自然の理法そのものだ、ということを知れば、「空」というのは何も無いことでは決してないことを知るだろう。

自然の理法は科学の法則や公式と一致していなければならないはずだ。現実だけしかない。

誤解とは恐ろしいものである。人間の頭は目の前のありのままの姿にいろいろな幻想を付け加え、それを本当だと思ってしまう。

生のままの現実、それ以外に、いったい何があるだろうか?

カテゴリー: エッセイ | コメントをどうぞ

人間と自然を分けたのは誰か?

RIMG0100.jpg

『山怪』という言葉に違和感を感じる、と昨日書いた。

不思議な現象を「怪異」と感じるのは、自然と人間が分離している、という考え方が原因ではないか?と。

よくよく考えてみれば、どんな高度な機械でも、コンピュータでも、自然由来である。石油は自然が作ったもの、原子力ですらウラン鉱石から採れた物質をもとに作られている。新しく発見された原子も、素粒子でも、それは自然現象である。

よく考えてみれば、人間が作ったものなど、この世には存在しない。

広い視点から俯瞰すると、すべてはこの「一つの現象世界」の中に収まる。

そのリズムを、人間ごときが、変えることなどできるものか。

変えているように見えているものも、よく考えてみれば、自然のなせるわざである。自然破壊ですら、自然のなせるわざだ。なぜなら、人間は自然に含まれるからだ。

人間という名を持った自然が、虫のように地表に巣食って、広がっているだけに過ぎない。

科学だと人間が考えているものや、私たちは他のどんな生物より高度な生き物である、と考えているその存在も、やはり自然そのものである。

こう考えていくと、この世には否定するいかなるものも無い。

ただ、全てが人間の都合で(その都合が、何の意思によるのかは知らないけれども)いろいろ考えられているだけである。その「都合」ですら、自然の力で生み出されたものだ。

人間と自然を分ける考え方は、その根底に何らかの事実で無い考え方を含むから、不安を感じるのではないだろうか?

自然と人間が、同じものだ、と考えることで、この不安はなくなるのでは無いだろうか?

それはとりもなおさず、「おおきな流れに身を委ねる」ということになるだろう。

目の前にはっきりと見える現実を見据え、自分のできること、与えられた作業をこなしていく。それこそが「委ねること」ではないだろうか?

人間はいずれ年老いて、病気になり、そして死んでいく。おおきな流れに委ねれば、それを素直に受け入れることができるようになるのではないだろうか?

それを感じるにはお金はいらない。ただ、受け入れるだけでよいのだ。

何かほかにあるだろうか?

あるとすれば、そいつを見せて欲しい。たぶん何も無いし、もしも仮にそんなものを見たところで、何も変わりはしない。

自然と人間を分けた人は、誰かは知っているけれども、敢えて言わない。

カテゴリー: エッセイ | コメントをどうぞ

山怪 山に入れなくなるほど怖い本

話題になっている『山怪 山人が語る不思議な話』を初めて読んだ。これは登山する人にとっては「閲覧注意」の本かもしれない。

必ずしも山の中で経験した怪談ばかりではない。山里で起こった奇妙な出来事、背筋も凍るような恐ろしい体験談が多い。

著者は実際にフィールドワークを行い、全国を歩き、聞き取りを行った。

最近の話もあるので、読む人は妙なリアリティーを感じてしまい、それがまた恐ろしさを増幅させる。山小屋や、テントの中ではきっと読めないだろう。ただでさえ真っ暗闇の中だ。

ss 0029-06-16 21.28.40

著者は普通のホラー話を書こうと意図してこれを書いたのではない。それなら、世の中に溢れている妖怪本やその他の「ほんとうにあった怖い話」のほうがよほど面白いだろう。

著者本人も言うように「人間の奥底にある水脈を」探し当てることが、この本の意図するところである。多分に民俗学的な要素も含まれている。「現代の『遠野物語』だ」という評もあったが、言い得て妙なるかな、である。

Exif_JPEG_PICTURE

日輪

私のような単独行者は、相当肝が座っていると思われるだろうが、実際のところはとても小心である。

危ないと思えばすぐに逃げる。お山に失礼なことはしない。お山のものは、石ころひとつでも、持ち帰ってはならない、という言い伝えを守っている。

真っ暗闇の中、たった一人で午前2時に剱岳の馬場島から早月尾根に入った時は、ほんとうに怖かった。もう何様が出てこられようと、その方に命を預けよう、という決意で入った。

RIMG0001.jpg

冬山にたった一人で入る時も、ほんとうに恐ろしい。一歩間違えば死である。おまえはなんでそんなことをやっているのだ?と自分に質問したくもなる。しかし、足が山に向かう。

『山怪』に書いてあったように、私は狐にでも取り憑かれているのだろうか?

いや、そういう類ではないと思う。何かに呼ばれるように、気がつけば誰もいない山の尾根や、腰まで埋まる雪の中をたった一人で、歩いている。

P1000540

山には確かに何かいる。目には見えないけれども。それは私の心の垢を取り除いてくれるありがたい存在だ。文明に打ちのめされて、曇ってしまっている心の中の鏡を、きれいにしてくれる、何かがいる。その存在は、恐怖の極限の向こう側にいるような気がする。まだそこまで怖い目には遭っていないが。もちろん、そんなことには遭わない方が良いに決まっている。しかし無意識的にその向こう側の世界を見てみたいと思っているのかもしれない。

P1000520

命を失ったら、それはそれでいいのかもしれない。こんなちっぽけなダニかノミみたいな存在を、山の大きな生命が受入れようが受け入れまいが、そんなことで変化する大自然のリズムでもない。

大自然のリズムを直(じか)に感じて、心が怯えるようならそれは、心が本来の姿を失っている、ということになるのではないだろうか?

本当は、怯えることなんて何もないだろう。なぜなら、それが自分の本当の姿だからだ。普段見たくないものを、突然見てしまうのを恐れているからこそ、恐怖が生まれるのではないだろうか?

もっと書きたいことが沢山ある。

『山怪』というのは、僕に言わせれば『山怪』などではない。そう言うと、自然と人間の分離を強調しているようで、なんとも言えない悲しい気分になる。

そうではなくて、それは「山の命」そのものなのではないだろうか?

カテゴリー: エッセイ | コメントをどうぞ