中山(立山川の橋が壊れていた)クズバ山(敗退)

この間からの大雨で、山行どころではなかったが、本日は「梅雨の晴れ間」が覗いたので、近くの「中山」に行ってきた。

しかし、大雨の影響でなんとなく歩きにくい。おそらく登山道に水が流れて川のようになっていたのだろう。

クズバ山にも初めてチャレンジしたが、この山は後から来ることにした。なぜなら、少し登って分かったのだが、早月尾根よりもかなり急なレベルの泥の坂道が延々と続き、しかもロープなどがまったく無い。正規の登山道では無いので、整備されていないのだ。これは生半可の気持ちでは臨めないと思ったので、標高1350mになったときに下山した。全体の1/3ほどの行程であろう。山の上も雷雲が出てきているようであった。剱岳も間もなく雲の中へ。

帰りは東小糸谷経由で降りると、とんでもない光景が。

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中山山頂はすっきりと剱岳の大展望。他にも登山者がちらほら。

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剱岳が雷雲で覆われてきたので、足早に下山。

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立山川を渡ろうとすると、橋が無いではないか!!!どうしよう。先日の豪雨で橋のこちら側が深くえぐられている!

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流れは極めて早い。ここが渡れないと、また登り返さなければならないので、「覚悟を決めて!」渡ることに。かなり恐怖。水は雪渓の雪解け水なので、凍るように冷たい。

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崩壊箇所のアップ。一部が完全に流されている。もう少し流されていたら、渡れないところだった。

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生のままの現実、それ以外に、いったい何があるだろうか?

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「自然と人間」「科学と宗教」など、いろいろな対立概念について、このブログで多くを語ってきた。

「結局のところ、あなたはどう考えているのか? 科学と宗教と、どちらを信じるのか?」という声が聞こえてきそうだ。

山に登りながら考えてきて、ひとつはっきりしていることがある。それは、そんな対立関係など、所詮は人間の頭脳が作り出した幻だ、ということ。

「それでは、この世は皆、幻なのか? 我々の生きていることには意味が無いとでもいうのか?」

そんなことを言っているのではない。現に目の前にある現実は、決して否定できないし、それを否定することは、大きな間違いを生むことになるだろう。

目の前にはただひとつの現実があるのみだ。それを人間に便利なようにするのが科学であれば、それを利用させてもらうだけだ。

また、別の視点から本質的に考えることが出来るようにするために、仏教哲学なども勉強する。

山に登っている時、疲労などで道迷いでもするならば、死んでしまうだろう。

それと同じように、普段生きている時でも、目の前の現実をしっかり認識しないと、道を誤ってしまうことだろう。

間違いをしないように、いろいろな工夫をするのは、自分の身を守るために必要なことだ。

神様がいるとか、居ないとか、それは個々人が感じることであり、言葉に出して言うことでもないだろう。誰かがそんなことを大声で言うならば、そこに向かって人が道を誤って進む場合もないだろうか?

逆に目の前に展開される現象世界に対して、「こんなものは何の意味があるのだろうか?」と絶望的に思い込む場合もある。

「世の中は、空(くう)だ」という言葉を誤解して、自然のリズムに逆らうような滅茶苦茶なことをやっている人間もたまに見かける。

「空」というのは、言葉で表現できない、厳しい自然の理法そのものだ、ということを知れば、「空」というのは何も無いことでは決してないことを知るだろう。

自然の理法は科学の法則や公式と一致していなければならないはずだ。現実だけしかない。

誤解とは恐ろしいものである。人間の頭は目の前のありのままの姿にいろいろな幻想を付け加え、それを本当だと思ってしまう。

生のままの現実、それ以外に、いったい何があるだろうか?

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人間と自然を分けたのは誰か?

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『山怪』という言葉に違和感を感じる、と昨日書いた。

不思議な現象を「怪異」と感じるのは、自然と人間が分離している、という考え方が原因ではないか?と。

よくよく考えてみれば、どんな高度な機械でも、コンピュータでも、自然由来である。石油は自然が作ったもの、原子力ですらウラン鉱石から採れた物質をもとに作られている。新しく発見された原子も、素粒子でも、それは自然現象である。

よく考えてみれば、人間が作ったものなど、この世には存在しない。

広い視点から俯瞰すると、すべてはこの「一つの現象世界」の中に収まる。

そのリズムを、人間ごときが、変えることなどできるものか。

変えているように見えているものも、よく考えてみれば、自然のなせるわざである。自然破壊ですら、自然のなせるわざだ。なぜなら、人間は自然に含まれるからだ。

人間という名を持った自然が、虫のように地表に巣食って、広がっているだけに過ぎない。

科学だと人間が考えているものや、私たちは他のどんな生物より高度な生き物である、と考えているその存在も、やはり自然そのものである。

こう考えていくと、この世には否定するいかなるものも無い。

ただ、全てが人間の都合で(その都合が、何の意思によるのかは知らないけれども)いろいろ考えられているだけである。その「都合」ですら、自然の力で生み出されたものだ。

人間と自然を分ける考え方は、その根底に何らかの事実で無い考え方を含むから、不安を感じるのではないだろうか?

自然と人間が、同じものだ、と考えることで、この不安はなくなるのでは無いだろうか?

それはとりもなおさず、「おおきな流れに身を委ねる」ということになるだろう。

目の前にはっきりと見える現実を見据え、自分のできること、与えられた作業をこなしていく。それこそが「委ねること」ではないだろうか?

人間はいずれ年老いて、病気になり、そして死んでいく。おおきな流れに委ねれば、それを素直に受け入れることができるようになるのではないだろうか?

それを感じるにはお金はいらない。ただ、受け入れるだけでよいのだ。

何かほかにあるだろうか?

あるとすれば、そいつを見せて欲しい。たぶん何も無いし、もしも仮にそんなものを見たところで、何も変わりはしない。

自然と人間を分けた人は、誰かは知っているけれども、敢えて言わない。

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