山と人間社会と

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このところ、山のコンディションが良くなく、入山を控えている。降雪の後に急に気温が上がったり、急に肌寒くなったりする。

こういう時に行くと、雪が腐っていて沈むし、クラックが開いているし、運が悪ければブロック雪崩に遭うかもしれない。

山に登ることは危険を伴うことだ、多少の危険にひるむべきではない、という意見もある。しかし、それはどうだろう。人はゲームの主人公の様に、何度もリセットして蘇ることはできない。

崖から落ちれば痛いし、雪崩に巻き込まれば息もできないだろう。道に迷って食料が底を尽けば、空腹に苦しめられるだろう。そんな現実が目の前にある時、人はどうなるだろうか?

山に登って、そういう苦しみに耐え、精神を鍛えるんだ、という考え方がある。僕はその考え方には反対だ。なぜなら自然は人間に対して、一切手加減を加えないからだ。「この程度で許してやるか」などということは全くない。そこらに生えている木や石ころとまったく同等のレベルにされてしまう。そんな相手に鍛えてもらうのが、本当に良いことだろうか?人間社会ならば、鍛えても殺しはしない。まあ、中には殺してくる人間もいるだろうが。しかしそういう危険な人間はいずれ社会から排除される仕組みになっている。

いろいろなものを自然は見せてくれる。しかし、登山していて一番見るものは「自分の弱さ」である。自由になれない、空も飛べない人間としての「限界」である。

その「限界」をありのままに見るのが「登山」だと思う。

そうやって「自分という存在が、この人間社会から切り離されては生きることができないんだ」ということを自覚するのだ。

一人で生きたい、一人でなんでもできる、と本気で思うならば、何も食べずに極寒の山の中で数日暮らせば良い。もちろんテントも、火も、食料も無しで。

そんなことをすれば死んでしまう。死ぬ前に幻覚を見るかもしれないが。

僕は、人間というものはそこまで自分を追い込む必要はない、と思う。

一歩間違えば、すぐ横に死がある世界を見て、我が身を振り返るだけで良いのではないだろうか。

生きている目は、すばらしい景色を見ることができる。おいしい食べ物を食べることもできる。たくさんの人と出会うこともできる。そして何よりも「呼吸をすることができる」。

本当に「あたりまえのこと」を、当たり前すぎて普段まったく意識しないことを、登山は教えてくれる。

人間は「ごくあたりまえに、生活しているのが良い」のである。

しかし私たちはそういう「あたりまえ」をかけ離れた幻覚や夢に惑わされすぎていないか?

「あたりまえに」ものが見えなくなってきたら、脳が異常をきたしているのである。

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