登山中の意識について

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単独登山中は一種の「異常な心理」状態になる。周辺5km以内には人がいないだろう、と思われることもある。携帯電話も圏外になるため、まったく他に頼るもののない状態に置かれる。

目の前には雄大な自然が圧倒的な力で迫る。気を抜けないため、極度の緊張状態。アドレナリンが分泌されるのか、興奮状態になる。必死になって、多少痛いところもわからなくなる。

神経はただ「歩くこと」だけに集中される。

昔の修験道の行者さんたちは、山に入る前、精進潔斎して山に入った。肉食はもちろん、酒も、五穀(米、麦、稗、粟、豆)すらも絶って、水垢離などを取り、身を清めた。

山に入ることは、死の世界に入ることと同じであり、相当の覚悟をもって臨んだようである。

身体を極度に研ぎ澄ましてから山に入るため、入る時点で異常な心理状態であっただろう。いざ歩き始めるならば、自分の意識がどうなっているか、わからないような状態だったかもしれない(いわゆるトランス状態)。

山を歩いていると、時々なんとも言えない安心した気持ちになることがある。昔の人たちは、こういう状態に神を見、仏を感じたのかもしれない。

また、ふと気がつけばものすごい恐怖に襲われている自分がいたりする。こういう時は、魔物を見たり、鬼を見たりしたのかもしれない。

山は「亡くなった人たちと会話できる」場所でもある。なぜか、ずっと昔に亡くなった人を思い出したり、印象深かった人を突然思い出したりするから。

登山中の意識は、普段の意識とかけ離れた状態になることがある。これはとても危険なことなのかもしれないが、そういう意識状態に入りやすくなるのは、確かだと思う。

かつては「山中で見たこと、聞いたこと」を口外するのはタブーであった。東北の方の山では未だにその習慣が守られていることがある。

「意識下の意識」を見ることはとても危険である。しかし、一方でそれを「体験」することで、人生が変わってしまうこともあったに違いない。

現代社会はそういう「意識で制御不能な」存在を見ないようにする。たぶん見ることを恐れているのだろう。だが、どうだろう。意識で制御不能な存在は、あんがい私たちの意識と同じ場所にあるのではないだろうか?

べつに普段の意識と、変わるわけがない。むしろ、普段仕事をしている時の意識にも近いものではないだろうか?

何か問題が起これば、理性的に対処し、希望をもって前に進む。ただ、それが鏡を磨いたように、研ぎ澄まされているのが、登山中の意識だ。

何か幻覚が見えたら、それは危険信号である。なぜなら「そこに存在しないもの」が見えているわけであるから。脳が異常をきたしており、それ以上その行いを続けてはいけない、というサインでもある。

昔の人々はそれを「神仏」と崇め、大事にしてきた。もちろん現在でも、山に由来する神社やお寺がたくさんある。

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