メディア論 あるいは「自我拡大装置」

「登山」とメディア(SNS、ブログ、出版など)の関係にたいする疑問から、このブログは始まったと言っても良い。

そもそも「ヤマレコ」で展開される「ネットの付き合い」の危険性と実体のなさ、がここに場を移し、「問わず語り」の形で私に文章を書かせるキッカケだった。

以前にも考察したように、SNSの人間社会は際限なく自我を拡大させ、その自我を持っている人間を死に追いやることすらある。

この図式は、「登山」関係のSNSだけでなく、広く一般社会にも見られる図式だということも、このブログでは検証してきた。

この空間(インターネットが作る、文章、写真、動画等の要素でできている空間)では、様々な情報が入り乱れているために、どの情報が正しいのか、という基準は全く存在しないと言って良い。

強いて言えば、「なるべく目立つ行動」を取れば、それだけ多くの注目を浴びる、ということだ。

これは街中を暴走族が消音器を外して、爆音を響かせながら走るのと大きな違いはない。それが迷惑であろうと、注目を浴びればそれでいい、という論理の元に成り立っている。

そういう情報が最近目立つ。

そしてそれとシンクロするように、現実の世界でもSTAP細胞の事件やら、佐村河内氏の事件やら、「衆人の注目を集める」目立つ情報が多く出てきた。彼らは世間を騒がせたことを恥じるどころか、あいかわらずメディアを利用して(あるいは利用されて?)、メディアの商業活動に参加している。

そればかりか、かつての大きな事件に関わりのある人物(オウム関係の学者や、ライブドアの社長)などがメディアに復活している。これは完全に視聴率を稼いだり、出版部数を稼ぐための「営業活動」の一環である以外の、一体何であろう?

人間の「恥」の観念は忘れ去られ、「営業利益」のみが最高の価値を持つものとなっている。

テレビ局、出版社は「利益」を追求しなければならないから、そうやっている。人間社会の「秩序」や「人間らしさ」以上に、「利益追求」は至上命題だ。

そして、その副産物としてメディアの世界は、あらゆる人間の「エゴ」を拡大する装置になっているのだ。

 

このような空間で唯一判断を任されているのが「個人の判断力」である。

どのような情報が「ほんとうに」欲しいのか? 検索して手に入れた情報は本当に信頼できるのか? それらは時として本当に詐欺であったり、命を脅かす原因になることすらある。

このメディアを使いこなすには非常に広い視野、経験、知識が必要になってくる。

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