現実だけを見て

私は「宗教」が嫌いだ。あの「威嚇する、畏怖させる」あるかどうかわからないような存在を示し、絶対に従え!という人たちが嫌いだ。

わからないことを探求せず、考えてみようともせず、何に対しても疑問を持たず、なんとなく平安に過ごしている人たち。

私は「絶対にこれは間違っていない」ということは、世の中には無いと思うのだ。

ギリシアの哲学者、特にアリストテレスは「現実の世界と離れた」ものがある、ということに疑問を持った初めての人間かもしれない。

ものごとと、そういう絶対の力を分離し、「絶対の神」にすべて投げ込んで、解決してしまった、と思う人たちを嫌っていたのではないか?

たしかにアリストテレスは「不動の動者」のことを「神」だと言っているが、それは「ある自然の働き」にたいして付けた名前であり、けっして現実の働きと離れたものをそれだと言っているのではなかった。「神」は「なんでもいうことを聞いてくれる」人間にとってだけ都合の良い神ではなく、この世の法則に対して名付けた名前であった。それは間違っても人間の意のままになる存在ではなくて、自然の法則そのものである。例えば、天体の動きのように。

もしそうだとすれば、古代ギリシアには「人間本来の健康な精神」があったのではないか?

これを「科学的精神」という人がいる。私は「科学」という言葉も嫌いだ。アリストテレスは自分の学問を「科学」だと言ったことは一度もなかった。

「科学」という言葉も、近年「絶対に逆らえない権威」を持った存在に成り下がっている。私は「科学」に対しても「宗教」がそうなってしまったように、固定化した、動きの無い、不健康なイメージを持っている。

だんだん後世になるにつれて、最初の頃の生き生きと明るい「陽」の雰囲気は消え去り、「陰湿な」「陰気な」精神が、それらの言葉につきまとうようになった。こうなったら多分その世界は終りに近い。創始者がどれほど偉大な人であったとしてもだ。

「人間は、生まれつき知ることを欲する」という宣言が、この健康な精神を呼び覚ます宣言だとすれば、これは今の世の中に一番欠落している要素では無いか?今の世の中は「科学」も「宗教」も死んでいる。あまりにシステム化されすぎたのだ。彼らはどちらも、「自分たちにとって、分からないことは何もない」と言っている。それは一種の合理化ではないか?考えることを放棄したことになるのでは無いか?

実際のところどうだろう?世の中、分からないことだらけではないか?

せっかく自分の頭、体がある。精いっぱい考え、精いっぱい体を使おう。

目の前には「真実そのもの」である現実があるだけだ。

目の前には、体験したことがない、すばらしい世界が広がっている。

わくわくするような、素晴らしい世界ではないか。美しくもあり、醜くもある世界で、勇気を持って生きて行こう。古代ギリシアの考え方に触れることで、そういう気持ちになれた気がする。

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