雪山には登ってはいけないのか?

IMG_6681.jpg

雪を頂く山を見ると「こんな場所に土足で踏み込んでも良いものだろうか」といつも思う。もちろん物理的に雪があれば滑りやすく、気温は低く、より困難な登山になるのだが。

それ以上に「近寄りがたい神聖さ」というか、圧倒されるような感じがするのだ。

雪山には何度も登っているが、いつも思う。

周りは白一色。空は青く、下界は大気が濁っているのがすぐに分かる。

人間の営みが、腐敗した肉にたかるウジムシの行いのように思える。集団を作り、その中で戦い、憎しみあったり、愛し合ったり‥

そんな行いが、いったい何を残すだろう? 自然界には長期間分解されないプラスチックのゴミを残し、有機物を撒き散らし、挙げ句の果ては、人工的にウイルスを合成したりして、自然界のリズムを乱し、いったい何をしたいのだろう?

「人間はただひたすら破壊のために存在する生き物」だろうか?

そう言いつつ、山に登って悦に浸っている自分が居る。「きみだってその汚物まみれの人間の仲間じゃないか?」ということは事実。

そんな人間は、結局どれだけこころを洗浄しようが、どれだけ修行しようが、どれだけ祈ってみようが、所詮「人間性」からは抜け出せない。

どんなに「美しい雪山の世界」「神聖な世界」に入ろうとしても、入ることは不可能なのである。

穢らわしい肉体を有する限り、つまりは生きている限り、人間は穢らわしいままなのである。

だからといって、生きていることをやめるのか?

「穢らわしい存在」であることは、「生きている、あるいは生きていく」ことを否定することではない。

「汚らわしく生きながら、いつかはこの場所に来るまでの間、生き続ける義務をもった人間」なのだ。

私はあらゆる宗教を信じない。私は某宗教の大学の仏教学部を卒業し、国立大学の大学院に進んで研鑽を重ねたが、その中から何も得られなかった。増えていくのは知識ばかり。

適当に論文を書いて修了したが、しっくりしない。言葉の世界は、自分の頭の中が空回りして妄想や思い込みが膨らむ世界だ。その隙間に「超能力」だの「オカルト」だの、おかしな考え方を持った人たちがひと旗上げようと、とんでもないデタラメな思考を考え出し、人を惑わす。

君たちには良心というものがないのか?

「アリストテレス」でも読めば、インチキな宗教が、いかにインチキかということが分かるはずだ。論理的な思考を重ねれば、ありがたそうなことを言っている、むずかしい話を考え出す人々はみんなだだの人間だ、ということが分かるはず。

今の世の中は、中世や古代ではない。

神や仏を信じない人ばかりだが、それでいいのだろう。だれも神や仏の力を借りなくても、生きていけるようになったのだから。

結局、「お金が欲しい」連中ばかりである。

こんな人たちは、洗脳して金を奪っていくだけで、何の役にも立たないばかりか、恐ろしい害悪を世界に撒き散らすだけだ。

私は、そんな世界が、ほとほといやになってしまった。

だから「当たり前の、脳にむりのかからない思考」しかしない。カネの絡んだ思考をすれば、脳みそが疲れてしまうので、そうではなく、「たのしいことを思い巡らす」ことにしたのだ。

言葉を紡ぐことは私にとって楽しみであり、「ブログ」に思いをぶつけることで、だれも読んでいないとしても、自分が楽しむことができる。

 

広告
カテゴリー: エッセイ パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中