死後の世界と、生きていること

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”山の神”に対する信仰は、太古の昔より日本人の心の中に流れている。それは「天の世界」「死後の世界」に対する畏れであり、感謝の気持ちの表れである。

人間が死して後煙が辿り着く先が、高い場所であり、それが山上にあると考えることはとても自然なことだ。

魂は上昇し、天上界である山上のお花畑で永遠の安らぎを得ると、昔の人たちは考えたにちがいない。

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ハイマツが生い茂る広々とした世界、この世のあらゆる汚辱を離れた世界に、至るのである。この世の中は「カネ」や「病気」や「酔わせるもの」など、それ自体が苦しみの原因となる汚物で満ち溢れ、一瞬として心休まることは無い世界だ。

仏教では「五濁悪世(ごじょくあくせ)」と言われる。それに執着すればするほど、人は悩み、苦しむ。それが「地獄」の本体である。「地獄」はそれぞれの心の中にある。生きとし生けるものが、この苦しみの中でもがき続けている。

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その苦しみの連続、苦しみの塊が終了する日があるのだろうか?生きている限り、その苦しみは止むことはなく、永遠に続いていくように思われる。

しかし、人間が死して後、どうなるのだろうか?その苦しみは続くのであろうか?それは誰にもわからない。この山上の美しい世界はそれに対する一つの「答え」を提供してくれる。

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山上の世界はとても厳しい自然環境の中にある。一年のほとんどの期間、純白の雪が大地を覆い、安易に生命が立ち入ることを禁止する。

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しかし、その厳しい世界も雪解けの時期だけ美しいお花畑になる。秋は紅葉に染まる。多くの生き物が躍動する。

残念ながら、山上の世界もこの汚辱の世界の外側にあるのではない。この世の一部なのである。苦しみはこの世界にも確かにあるのだ。

ツキノワグマは子を産み、オコジョが雷鳥を食らう。自然の営みは、この山上世界でも、下界と全く変わるところがない。唯一違うとすれば、「破壊のスピード」が、山上世界ではゆっくりしているということだけだ。

だとすれば、私たちが普段生きている世界にも「美しい一面」と「醜い一面」があるのではないだろうか。

つまり死後の世界=今生きていること、死=生であり、渾然一体となった自然の中で、何もわからぬまま、それぞれの道を歩むものなのかもしれない。

私たちは、どこに向かっているのだろうか?何かを破壊し続けながら、人間の営みは続いていく。

決して破壊されないものは何であろうか?それは「決して考えられないもの、目に見えないもの」なのかもしれない。

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