泰澄大師

『白山・立山と北陸修験道』を読み進めている。
「白山」の節まで読み終わった。
白山の御開山、泰澄大師は伝説の中の人物だ。しかし同時代の中央の公式記録に、その名は見られない。例外として宮内庁所蔵の一切経の奥書に「泰澄」の名が見えるが、それが「越の大徳」と言われた泰澄大師と同一人物なのか、定かでない。後世作られた『泰澄和尚伝記』も、鎌倉時代の書写である。
この論集では「泰澄と名乗る民間で育った仏教徒が越前国にいて、越前の人々に大いに白山の霊験を語り続けていたらしいということ、この点は信用してよかろう」(62p)と言う。
また「泰澄は越前の人で越前馬場のみに属する行者であった」という。

http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/choukoku/otanji-taicho_pic.html

泰澄は中央から見れば、正式の僧侶とは認められない「民間の仏教徒」(私度僧といわれた)であるため、公式の記録には上らなかった。
これは大峰山を開いたと言われる役行者についても言える事である。役行者もまた私度僧であった。
また空海も最初は私度僧であったが、後に官僧(国家公認の僧侶)となっている。
奈良時代には、このように私度僧が山林で独自に修行し、呪術的な力を発揮した者がいた。

白山の泰澄大師がどのようなご修行をなされたかは、相当潤色を加えられた後世の資料によってしか知る事は出来ない。
「虚空藏求聞持法」を修したのではないかということであるが、そうだとすれば空海もまた同じ行法を修している。

泰澄大師開基とされる越前の「平泉寺」は、白山修験の中心地であった。
このお寺は今は存在しない。神仏分離令によって、白山神社になった。しかし早くから比叡山の末寺となり、天台の四種三昧を修行したりしていた歴史がある。

古代においては辺境の地であった北陸の、しかも山林修行者の足跡を辿る事は容易な事ではない。
なので、方法論として「考古学的」「文献的」「民俗学的」「人類学的」アプローチが試みられている。

歴史的な幾度もの大転換を経験したはずの北陸の宗教風土の中で、いまもなお語り継がれている「泰澄大師」は、その二人の弟子「臥行者」「浄定行者」の名前とともに、忘れる事は出来ない。

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