臥行者を思う

Exif_JPEG_PICTURE(写真は雪の医王山。泰澄大師が開山したと伝える)

白山の御開山、泰澄大師には有名な弟子が二人おられた。

一人は「臥行者」。もう一人は「浄定行者」。

臥行者は泰澄大師につねに付従い、雪の中で寝る行を常に行っていた。
そのために「ふせりの行者」と言われた。

あるとき、泰澄を尋ねて来た僧が「勤め励んで体を動かすのが修行というものだろう?寝るのは怠けていることだろう?それなのにお前さんはなんで修行者などと名乗るのか」と臥行者を問いつめた。

臥行者はその時も寝ていたが、首を挙げてこう答えた。

「修行には二種類ある。一つは体を使って修行する事。2つ目は心の修行だ。あなたの言っているのは、体を使ってする修行のことだ。わたしの行っているのは心の修行だ。世の苦しみの寒風に当たり、罪の雪の上に寝ている。真理の大空を仰いで、真理の輝きを見ているのだ。こうすれば、さとりを求める心はいよいよ清くなり、観察の修行と智慧が一致し、一念一念増えて行くのだ。どうしてこれが「心の修行」の計り難い意味でないと言えようか?」
客僧はこれを聞いて感心し、臥行者にひれ伏したのであった。

(客僧比丘来たってたまたま沙彌に語って曰く「励勤進趣これを名付けて行と為す。臥せるは倦怠の儀なり。何ぞ行者と称するか」。時に沙彌また臥せるなり。首を挙げて答えて曰く「行には二種あり。一は身行。二は心行。なんじの論ずる所は身行なり。予の修する所のものは心行なり。八苦の寒風に当たって、罪障の積雪に臥す。阿字の大空を仰いで、大日の光照を見る。菩提心は浄く、観慧相応し、念念に増進す。あに心行の微趣にあらざらんや」。客これを聞いて感歎伏膺す)

(『国史大系』第14巻(『元亨釋書』巻十五)、経済雑誌社、1897、p886)

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